葉山町の御用邸近く、三ヶ岡山中腹の景勝地にある旧金子堅太郎葉山別邸2棟(一色字三ヶ岡)が、国の文化財建造物として7月17日、文化審議会から文部科学大臣に対して答申されたことを受け、登録されることが決定した。
金子堅太郎(1853~1942)は、明治から昭和にかけて政治家や学者として多方面で活躍した。1871(明治4)年には渡米し、ハーバード大学に法律を学び、帰朝後、元老院権大書記官、太政官権大書記を兼ね、明治憲法草案作成に参与した。司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官を歴任し、位階は従一位大勲位伯爵。美術にも理解があり、1919(大正8)年には、日本美術協会会頭にも就任している。
金子が農商務大臣当時、1882(明治15)年に息子がヨットを建造し、葉山で楽しんだのが日本人による最初のヨットといわれ、葉山港近くに葉山町漁業協同組合が1928(昭和10)年、建立した「船泊竣工記念」の碑の題字は金子が執筆したもので、ヨットの発展にも貢献したとされる。
答申された2棟は、1922(大正11)年ごろに建築された「旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘」と、1933(昭和15)年頃、金子の米寿を祝って建てたと言われる「旧金子堅太郎葉山別邸米寿荘」。
葉山町によると、金子は1887(明治20)年代から、葉山一色公園付近に別荘を構えたが、大正期の御用邸附属邸建設に伴い、当初の敷地から現在の敷地に転出。関東大震災後にはほぼ常住の住宅として使用されていたと言う。その後、1955(昭和30)年代に恩賜松荘の現在の所有者家族が取得した。同所有者は登録を希望した思いを「登録することで、もし所有者が変わっても建物をこの地に残したいという意思も引き継いでもらえるのでは」と話し、「米寿荘の所有者とも同じ思いで、2棟一緒に登録出来たことにも意味がある」とも。「米寿荘」は上田義彦写真事務所が所有している。
「恩賜松荘」」は南北棟に分かれ、南棟は平屋建、切妻(きりづま)造桟瓦ぶき、北棟は平屋建、寄棟(よせむね)造桟瓦ぶきで、銘木を用い欄間など細部まで意匠を凝らした上質な別邸。その東に建つ「米寿荘」は2階建て、入母屋(いりもや)造桟瓦ぶきで、1階は民家を移築したと伝えられ、農家風意匠とし、2階は銘木を用いた数寄屋風意匠。
文化財を担当する葉山町教育委員会生涯学習課の山口正憲さんは「今回の登録で、建物の価値を広く理解していただくにはいい機会になる。民家を移築した名残があり、大正末期から流行した民衆の生活を大事にする民芸(民衆的工芸)の運動が葉山の別荘でも取り入れられていることも貴重」と話す。
葉山の別荘の記録保存などの活動をしている「葉山環境文化デザイン集団」(堀内)の野中康司さんは「昭和10年ごろには500棟程あった別荘も今は50棟もない。残したいという強い意志がないと登録の申請はできないので、所有者の方の強い思いを感じる。本当に良かった」と喜ぶ。