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逗子で正力松太郎が暮らした家をひ孫が継承 思いを語る

大正時代に建てられたと考えられる木造の家を庭から観賞する参加者。窓ガラスなどもそのまま使用している

大正時代に建てられたと考えられる木造の家を庭から観賞する参加者。窓ガラスなどもそのまま使用している

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 逗子・葉山・鵠沼の住民で組織する「原風景を生かすまちづくりの会」が11月7日、正力松太郎の暮らした家でイベント「時代を彩った古民家を継承する」を開催した。

スライドを使いながら話をする塚越暁さん

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 1885(明治18)年生まれの正力松太郎は1934(昭和9)年、日本初のプロ野球球団「大日本東京野球倶楽部(現・読売巨人軍)」を結成した。1952(昭和27)年に日本初のテレビ放送予備免許を取得し、「日本テレビ放送網株式会社」を設立。昭和30年代には国務大臣を歴任し、東海村の日本原子力研究所設立などに関わった。

 正力は1931(昭和6)年、逗子に移り住み、1969(昭和44)年に亡くなるまで暮らした。正力が住む以前にいつ、どのような人が建てた家かなどは親族も不明だと言うが、女中部屋などもある邸宅の造りを成している。1939(昭和14)年に増築、1961(昭和36)年に大改造をした図面などの記録が残っている。現在の延べ床面積は約255平方メートル。

 家を引き継いだ松太郎のひ孫の塚越暁さんによると、正力夫妻亡き後も実娘(暁さんの祖母)が亡くなるまでの約50年間は管理人が毎日、窓を開けて風を入れ、掃除し、庭の手入れをしていたという。「そのために空き家が大切に残っていたが、親族の間でいよいよどうするかということになった時に、壊さないことが僕たち世代の責任だと感じた。管理人として、住んでしまえばどうだろうと考えた」と塚越さん。「ただ、建設の仕事をしていた父から、安全に暮らせるかどうか調べるよう言われた。そこで住宅医に依頼し、調査してもらった。外観からは住めそうに思えたが、現代の耐震基準をまったく満たしていなかったし、骨格が腐ったり傾いたりして中はグズグズだった」と振り返る。

 木造建築の専門家チームに依頼して、床板をナンバリングしながら1枚1枚はがしたり、壁を壊したり、骨格の状態にした上で、内部は金属の梁などで補強する現代構法を取り入れて補強したうえで、大部分は当時のまま再現した。塚越さんは「電気の笠や応接間の椅子や机などもそのまま。窓ガラスも大きくて薄いので寒いが当時のまま使っている」と話す。「正力が亡くなった後に生まれているので、実はこの隣にあった祖父母の家の方が僕には忘れがたい。リノベーションをする時に壊したその思い出の家の床板や棚の取っ手などを再利用している」とも。

 塚越さんは「古民家に住むようになって約2年、台風が怖くてたまらない。生垣が倒れた時は、3カ月かけて自分で編み直した。近隣への倒木も心配。庭の手入れも自分たちでやろうと思ったが、やはり庭師の方に依頼している。家賃はないが、職人に依頼せざるをえないので修繕などに掛かるお金が桁違い。でも住み継ぐことが大切」と話す。

 イベント主催者の谷守弘さんは「昭和初期、逗子に邸宅を構えた財界人の一人、正力松太郎氏の邸園は、当時の面影を残した改修を行い、現在に住み継がれている。その家を会場とし、邸園に刻まれた歴史、古民家継承の経緯と工夫について広く知ってもらいたいと思って企画した」と話す。「市内外から参加者はすぐに定員25人に達した」とも。

 イベントは、正力が実践していた坐禅を、当時使っていた和室で体験して終了した。

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