地域に根差したコミュニティー放送の制度は1992(平成4)年に北海道の「FMいるか」に始まり、「逗子・葉山コミュニティ放送」(以下、湘南ビーチFM)は関東で一番早く1993(平成5)年に元NHKのキャスターでジャーナリスト木村太郎さんが社長となり開設した。6月20日に社長に就任した尾前芳樹さんは3代目。「兵庫エフエムラジオ放送」時代、阪神淡路大震災を経験し、2006(平成18)年に入社し、木村イズムを学んできた尾前さんに「湘南ビーチFM」のこれからを聞く。
―― まずは社長就任おめでとうございます。2006(平成18)年11月に営業職で入社しているのですね。
尾前 13年たちましたね。今、ラジオ業界は厳しい時代なので、この業界が好きでも泣く泣く辞めていく仲間もいますから、こうしてラジオ業界で働けていることは幸せなことだと思っています。
―― 元々メディアというかマスコミ志望だったのですか?
尾前 大学は経済学部でしたが、メディアに興味があって、学生時代にテレビ朝日系列の深夜番組「CNNデイウォッチ」のアルバイトをしていました。ちょうど卒業の頃、それまで日本に無かったケーブルテレビが開局し、都市型ケーブルテレビといわれ、これから都心部にどんどんできてくるぞ、というタイミングでした。千葉に住んでいたこともあり、「ケーブルネットワーク千葉」に1期生として入社しました。
―― 新しい会社でやりがいもあったのではないでしょうか?
尾前 それが、営業で入ったので「ケーブルテレビに入りませんか」という仕事で、何となく違うと思いながら2年は頑張って勤めました。その後、やっぱり音楽が好きだったので音楽の環境のある会社がいいなと思うようになって…。
最初に買ってもらったレコードは 「デイドリーム・ビリーバー」
―― 音楽好きになった最初のきっかけは何ですか?
尾前 小学生の頃、同じ社宅に住む年上の男の子から「カーペンターズを聴いてごらん」と薦められたことですね。それまでは日本の歌謡曲を聴いていましたが、こんな曲があるんだと知り、それから「オリビア・ニュートン・ジョン」や「ビリージョエル」など洋楽を聴くようになりました。
―― 最初に買ったレコードも洋楽ですか?
尾前 アメリカのテレビ番組「ザ・モンキーズ」が日本でも放送されていて、それを見ていました。その番組で流れていた「モンキーズのテーマ」と「デイドリーム・ビリーバー」が入ったEP版を母親が買ってくれたのが最初かな。クリスマスプレゼントとして、ポータブルレコードプレーヤーにそのレコードが付いていたと思います。
―― ギターなど演奏する方向には進まなかったのですか?
尾前 音楽は聴く専門。社宅だったので、親同士の見栄の張り合いみたいなものがあったのかな。小学生の頃、無理やりにエレクトーンを習わされたことがあって、嫌でね…親ともめて、それ以来、音楽の習い事、楽器を弾くという選択肢は無くなりました。お小遣いをもらっては現金握りしめて、レコードを買いに行きましたね。
エフエムラジオ「Kiss FM KOBE」 阪神淡路大震災を経験
―― 千葉のケーブルテレビの後、ラジオ局に転職されていますね。
尾前 当時、「西のJ-WAVE」と言われて開局した「兵庫エフエムラジオ放送」(愛称=Kiss FM KOBE)の東京支社に転職しました。洋楽が好きだったのでラジオもFEN(Far East Network)の放送を聴いていましたが、1985(昭和60)年にFMヨコハマが、1988(昭和63)年にJ-WAVEが開局すると、アメリカのラジオのスタイルを取り入れて、とても斬新な感じがしてね、はまっていました。音も良かったですし。そういうことで、よく聴いていたエフエムラジオ局の就職先があると知って転職したのです。
―― そこではどんな職種だったのでしょう?
尾前 東京支社でラジオ営業の基礎からさまざまを2年ぐらいたたき込まれました。その後、「関西の商い」も勉強するようにと、大阪支社へ転勤になりました。秋に転勤になって、その翌年1月17日に阪神淡路大震災を経験したんです。灘区に住んでいまして、家は一部損壊。電車も止まってしまって大阪に行けず、神戸の本社に集まって来た社員たちで災害情報を放送し続けました。ラジオがライフラインでしたから、会社に1週間ほど泊まり込んで放送し続けましたね。私は、避難所で何が足りない、どこどこで炊き出しが行われているなど情報を集めることをしました。当時はインターネットもないので、ファクス回線が役に立ちましたね。ラジオの利便性と必要性を肌で知った体験となりました。その時のファクスをまとめた本があります。
―― ラジオが災害時に必要なメディアだということがクローズアップされた出来事でしたね
尾前 そうですね。テレビも注目してくれて、当時、フジテレビの夜の番組のアンカーマンをやっていた木村太郎さんが取材に来てくれたんです。私は立ち会っていませんが、テレビも取材に来るんだという印象的な出来事でした。それから6年位、神戸にいて、街が復興していくところを見ています。
逗子へ引っ越し 木村太郎さんとの出会い
尾前 東京に戻ってきた時に、逗子の桜山に住むようになりました。ランニングやカヤックなどを趣味にしていたので友人が住んでいたこともあって逗子を勧められたんです。横須賀線1本で通勤できましたし。
越してすぐ、葉山の鐙摺(あぶずり)にある「ラ・マーレ・ド・チャヤ」(現 レストラン「ラ・マーレ」)に行きました。そしたら湘南ビーチFMがジャズライブをやっていて、木村太郎さんも来ていたんですね。阪神淡路大震災の時に取材していただいたお礼も言いたくて、ごあいさつしました。
―― そんな運命的な出会いが逗子に越してすぐにあったのですね。
尾前 そうなんです。その時に木村さんに「時々スタジオに遊びに来てくれ」と言われて、それから土曜・日曜は葉山マリーナのスタジオに遊びに行っていました。まだ事務所も葉山マリーナにあった時です。木村さんがいらしたわけではないですけれどね。
―― でもそのことがきっかけで、湘南ビーチFMに転職することになるのですか?
尾前 そうかもしれません。「兵庫エフエム」から2004(平成16)年に東京の「エフエムインターウェーブ」に移るのですが、大きな会社はオーナーが変わると体制が変わるでしょ。そこで迷いが生まれるようになって、ある晩、肩を落として逗子駅から自宅に向かって歩いていたんですよね。そしたら、湘南ビーチFMの女性に声を掛けられて、少し悩んでいることを話すと、ちょうど木村さんが「男性の営業がいたらいいな」と言っていたということで、つないでもらって木村さんの面接を受けました。
―― 急な展開ですね。でもその面接で採用されるわけですね。
尾前 そうです。その面接で木村さんとの話の内容は「雑誌を作ろうと思うんだけど、どうかな」「朝の情報番組をやろうと思っているけど、どう思う」などでした。ちょうど情報誌「湘南ビーチFMマガジン」の前身となる情報誌を始めた頃だったんですね。
―― 湘南ビーチFMに移ろうと思った決め手はどこですか?
尾前 一番は、天下の木村太郎さんの下で働けることでしたね。
―― 実際、一緒に仕事をされて木村さんはどんな方だったのでしょう。
尾前 いろいろな引き出しを持っている魅力のある方ですね。インターネットラジオ放送への取り組みももちろんそうですが、合成音声によるニュースもそう。新しいものにはすぐに首を突っ込んで、ああでもないこうでもないと取り組んでみる方ですね。
湘南ビーチFMのこれから 地域へ、海外へ
―― 6月に社長になって、今、どんなことをお考えですか?
尾前 木村がよく言うことですが、頭だけで考えて「それできません」は言うなと、やってみてこういう課題がでてきてしまうから無理だというなら納得する、ということは私も同じ。「やっても無駄ですよ」という発想は持たないということですね。
つい最近も「通信が5Gの時代になる。この業界にどんなアイデアをもたらすか分からないから勉強しておくように」と、80過ぎのオジサマに勉強しろと言われました(笑)。
―― 木村さんが作ってきた「湘南ビーチFM」の、そういう新鮮さってありますね。
尾前 そうですね。「ジャズステーション」という「湘南ビーチFM」としてのブランドを作り、こうあるべきだというイメージを25年、育て守ってきたと思います。そのブランドにファンが集まってきてくださっているわけですからね。
ミュージックディレクターという仕事があり、24時間いつ聴いても「湘南ビーチらしい」曲が流れるように、木村監修の下で選曲しています。最近は特に若いリスナーを意識したり、土曜・日曜は観光客を意識したりして曲をかけています。
―― ジャズライブの生放送も木村さんのアイデアですか?
尾前 ジャズライブは生の演奏をラジオで流そうという木村の発想から始まりました。さらに、音だけでなくウェブカメラで映像も生で流してしまおうというのも木村のアイデアです。「ラジオでいいじゃないですか」と言われそうなことを、どんどんやってしまうんですね。そういうこともしっかり継承していきたいと思っています。
―― 尾前さんらしさは、どのようにお考えですか?
尾前 実は「湘南ビーチFM」ってまだまだ知られていないと思っています。ですので、もっと私が地域に出ていこうと思っています。担当の営業が出て行くだけでなく、自分も顔を出して外交活動をしていきたいですね。情報発信ステーションとして防災基地としてローカルメディアを使ってほしいと思います。
一方で、世界中の人に聴いてもらえる時代になっている。特にジャズって世界共通でしょ。海外で聴いているファンもいて韓国や香港、ドイツからここに訪ねてくる人もいて驚きます。
―― ここって、この池子の本社にですか?
尾前 そう。リスナーが訪ねてくるなんて初めての経験で衝撃でしたよ。
―― コミュニティー放送ならではかもしれませんね。最後にもう一言お願いします。
尾前 今後は木村さんが作り上げたこの局の認知度をさらに上げて、リスナーを増やしていきたいです。木村が言うチャレンジ精神を受け継がないと。そのためにも朝のランニングを続けないと。約1時間、海岸線を走っているのですが、頭が活性化しますからね。
―― 同じ地域のローカルメディアとして、今後ともよろしくお願いします。
【インタビュー】逗子葉山経済新聞編集部