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逗子の平成30年間を平井竜一さんと振り返る

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 逗子の平成時代を振り返る時、「池子米軍住宅建設問題」は切り離せない。1987(昭和62)年、大学3年の時、米軍住宅受け入れの是非を争点に当時の富野暉一郎市長が辞職し再選挙が行われ、その選挙に関わって以来、「池子問題のために生まれてきたと思えるときがある」と言う前逗子市長 平井竜一さん。

 4月15日市政記念日には「市長として永年にわたり、地方自治の伸展と本市発展に多大な貢献をした」という理由で「特別功労表彰」も受けた。市長を退任して4カ月。自身のことも含めて、平成30年間を聞いた。

―― 4月から新しい仕事を始めたそうですね。どんな仕事ですか?

平井さん 民間のシンクタンクで、公民連携に関するコンサルティングといえばいいかな。国や自治体と民間企業を連携させて、まちづくりを進める仕事です。自分の経験がどうすれば生かされるかと3カ月間、いろいろな人に会い、一時は独立も考えたが、最終的には会社に勤めることを決めました。都内まで通っています。

―― 公民連携に関するコンサルティングですか。

平井さん 今までの市民活動と行政の協働事業は、市民の持っている能力や意欲を行政が取り入れていた協働だったけれど、これからは「民」のところに企業が加わり、民間企業が地域貢献や財政の面でも行政と連携・協働していく時代になっていく。行政にとって必要と思う民間の技術やノウハウを提案していく仕事といえばわかりやすいでしょうか。

 市民との協働では、お金をかけずともまちづくりをやっていきましょう、だった。これからは民間、株式会社がビジネスとしても成り立つまちづくりがもう一つの柱になっていかないと。行政はお金がないから、やりたいけどできないことがたくさんある。

―― 行政の状況を熟知しているから、民間としてどういう提案をすればいいかわかるわけですね。事業の落としどころを知っているというか…。

元々、会社員として8年半、
経営を勉強していた

―― 大学卒業後、企業に就職していたことがあるのですね?

平井さん そう。大学卒業後8年半、会社員。建設コンサルの会社といえばいいかな。商業施設の業態提案のコンサルで、横浜のビブレ21も手掛けた。バブル時代だった。

―― 大学生から市長になりたいと考えていたと話されていましたが。

平井さん 考えてはいた。でも当時は竹下内閣のリクルート疑惑、金丸信の佐川疑惑など政治不信が吹き荒れていた時で、学生から政治家になるなんて言うとまともな人間じゃないと思われかねなかった。市長職はある意味、経営者だから経営も学ぼうと思って。

平成9年9月、逗子に戻る
翌年に市議選

―― 大学生の時に、選挙に関わったきっかけは何だったのでしょう。

平井さん それが池子問題でした。富野さんが開いた若者向けのミニ集会にたまたま行ったこと。富野さんが辞職して民意を問う選挙に打って出た時で、同年代が20人くらい参加していたかな。終わって解散した時に、これで終わっちゃうのかという気持ちが湧いて、参加していた学生に声を掛けて後日、集まって話し合い、企画したのが候補者2人との交流パーティー。新しくなる前の石渡薬局のビルの2階にイベントスペースがあって、投票日の前日に同世代の若者100人集めてサンドイッチとジュースで行った。今、考えたら公職選挙法に触れるかもね。そこから大学卒業するまでその仲間で集まって活動していた。将来、市長をめざそうと心に決めたきっかけです。

―― 逗子に戻ってきたのはいつだったのでしょう。

平井さん 会社を辞めて、1997(平成9)年9月に戻りました。市議選の前年でした。

(2019年4月28日「池子フレンドシップデー」で開放された米軍住宅地側のスペースで楽しむ逗子市民ら。後方に米軍住宅)

1998(平成10)年はポスト池子の選挙
時代の寵児が出現

―― 1994(平成6)年、国、県、市による三者合意をもって米軍家族住宅854戸が建設され、1996(平成8)年、米軍人とその家族の入居が始まりました。三者合意の時の市長は澤光代さん。建設反対の市長でした。

平井さん 澤さんは、建設に反対だったけれど、残された緑を守りたくて三者合意を受け入れた。最近会ったら、すっきりした顔をされていました。昨年11月、国が横浜側の追加建設はしないという発表をしたからね。基地のゲート前に立つことも止めた。

―― 澤さんの後、1994(平成6)年に平井義男さんが市長になりました。1期だけでしたね。

平井さん 平井義男さんは開発指導要綱の規制緩和をして、建設基準の高さを10メートルから15メートルにしたので、特に新宿地域でマンション開発が行われた。池子問題の反対運動の中心は主婦層だったけれど、開発反対に対しては昔サラリーマンだった男性たちが住環境を守ろうと活動を始めた。

―― それで1998(平成10)年の選挙は「ポスト池子問題」と言われ、環境開発問題が争点になったのですね。

平井さん そう。開発を止めないといけないという潮流に乗って長島一由さんが当選した。時代の寵児のような新しい政治家だったと思う。

―― 平成最初の10年、逗子の政治の争点は池子でした。次の10年が開発や環境問題になるのでしょうか。

平井さん 長島市長の時も池子米軍住宅内の本設小学校の建設が出てきたり、追加建設反対の裁判も起こしたりしていたけれどね。彼のレガシーは「まちづくり条例」(平成14年施行)や「景観条例」(平成18年施行)だと思う。 特に「まちづくり条例」は他の町に比べて厳しく、これによって今の住環境は守られている。

―― 長島さんは2006(平成18)年まで8年務めて、次が平井さんになりますね。長島さんからどんな引き継ぎがあったのですか?

平井さん 書類だけもらったよ。当時、反長島の急先鋒だったからね。議会で文化教育ゾーンの建設コスト70億の投資について、ランニングコストなどの試算が出ていなかったことの問題を強く迫ったら、その言葉尻を捕らえられて、刑事告訴されたほど。結果は不起訴になったけれど。

 彼は立候補しないと表明したから選挙で戦うことはなかった。

2014(平成26)年 池子住宅地区40ヘクタールの土地など
共同使用始まる

――平井さんが市長になった2006(平成18)年も池子にとって難しい時でしたね。

平井さん そうですね。米軍住宅追加建設反対の裁判を抱える難しい市長選で、市長就任1カ月後、池子裁判は高裁で敗訴。最高裁上告のための補正予算が市長として最初の議案だった。議会では一票差で否決され、最高裁上告を断念。その後、国との交渉に臨み、状況は大きく進展した。2010年11月に横浜側追加建設へ言及しないことを表明し、逗子側に住宅を建てないことを国に確約させた。

 2010(平成22)年、2期目の選挙では「池子の森自然公園」実現の現実路線を民意に問い、再選したわけです。

―― 2014(平成26)年11月に池子住宅地区一部40ヘクタールの返還を前提とした共同使用が始まり、翌12月の選挙は無投票で再選。1938(昭和13)年以来76年ぶりに市民が自由に立ち入れた出来事でした。

平井さん もちろん返還が終着点だけれど、共同使用の開始はある意味、一つの大きな区切りだったと思います。

 実は、小田鈴子さんは、守る会から市議になって3期務め、僕の2期目で副市長に指名し、彼女の任期最終日に池子の森自然公園の開園を見届けて退任というドラマチックなことも起きていたんです。

――そうだったのですね。あの日はゲストに世界陸上銅メダリストの為末大さんが来て、一緒にグランドから公園内を走りました。入れるようになったんだなという実感がありました。それ以降、新しい市民は池子を「池子の森自然公園」としてしか思っていないかもしれません。

住民主体でどうやってまちづくりをするか
選挙への無関心

―― 平成の後半はどうだったでしょう。

平井さん 市民活動の発展期といえるでしょうか。市民交流センターがオープンし、市民活動は飛躍的に活発になった。市民協働事業や、市民活動支援、アートフェスティバルや共育(ともいく)フェスティバルなどの共催イベント、小学校区住民自治協議会など、市民と行政が協働してまちづくりを進めることが当たり前になったと思います。

 市民自治、市民協働、つまり住民主体でどうやってまちづくりをしていくかが大きな柱になりました。しかし、高齢化少子化問題も常にあって、財政は厳しくなる一方で、12年間の後半、最大の課題は実は財政でした。

―― 直近の市長選は47%でした。市民一人一人に直結するような「財政危機」という大きな争点があっても半分の市民は投票に行かなかった。

平井さん 僕の最初の市長選挙の時が48%、次は44%、3回目が無投票で、今回が47%。1982(昭和57)年以降、池子問題があった時は70%超えていたから、それに比べると逗子は市民自治の町と言っていても他の町同様、無関心のほうがマジョリティーになってしまっている。

 市民協働とか市民自治が自分の政治の柱だったわけだから、50%を超えられなかったことへの責任を感じる。政治全般への不信もあると思うけれど、市民の意識を喚起できなかったことを反省している。民主主義の根幹が選挙だからね。

―― どうしたらもっと政治に関心を持ってもらえると思いますか?

平井さん 一つは教育だと思っています。18歳に選挙権年齢が下がったことでシチズンシップ教育の重要性を感じている。シルバーデモクラシーといわれるように、若い人が投票しても意味がないと思ってしまう、そういう無力感・無関心をどうすればいいのかという問題意識が強まった。それもあってライフワークとしてシチズンシップ教育に関わっていきたいと思っています。

―― シチズンシップ教育ですか。

平井さん 子どもの学びをどう作るかです。

 在職中、逗子中と沼間中で7~8年、シチズンシップ教育とキャリア教育を統合した授業をしていました。逗子中の校長先生から「市長の仕事の話をしてほしい」と頼まれたのがきっかけです。

 毎年7月に1年生全員に、市長や議員の仕事、市民の役割などを話し、中学生も逗子市民としていろいろなボランティアができることなどを講義します。3年の修学旅行で、京都・奈良と逗子を比較して、生徒が逗子への提案を考えます。いい町にするためのプレゼンテーションを僕が聞いて講評していた。

 そんなこともあって市長を辞めて時間ができた時にネットで、全国組織のシチズンシップ教育のフォーラムが3月にあることを見つけました。

――それが、フェイスブックに書いてあったフォーラムですね。

平井さん 模擬授業や研究発表の公募をしていたので応募したら、やってくださいということになって参加してきました。市長経験者がその体験を踏まえて話したこともあって反応は良かったですね。

―― 市民自治を進めていく逗子にとっても、シチズンシップ教育は必要そうですね。

平井さん 21世紀になって人工知能が登場して、ますます主体的に考え、行動する力が必要になり、既存の教育とは違うものが求められるようになったとき、教育現場と足並みそろえてどう転換していけるかということも重要。

 池子のような特別な問題ではなく、普段の暮らしにも政治は関わっているはず、自分の生活を良くするという意味でも主体性を持って政治に向き合ってほしいと思っています。

【インタビュー】逗子葉山経済新聞編集部

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