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平成最後の2月。二・二六事件を起こした青年将校の弟(葉山在住、93歳)は何を思う

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 二・二六事件で陸軍教育総監、渡辺錠太郎殺害に加わった兄を持つ安田善三郎さん(葉山在住、93歳)は、その渡辺さんの次女、故シスター渡辺和子と深い交流があった。平成最後の2月26日を前に安田さんが思うことはどんなことだろう。
 
 二・二六事件とは/1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校が武力による政治改革を目指し、約1500人の下士官・兵を率いて起こしたクーデター事件。内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎らを殺害し、国会議事堂や首相官邸周辺占領した。安田善三郎さんの兄はその青年将校の1人、安田優(ゆたか)少尉
―― 2月26日がまた巡ってきます。今、思うことはどのようなことでしょう。

安田さん  最近はもう特別なことはありませんが、どうして兄がああいうことをやったのかという思いは常にあります。天皇のために悪い側近を殺そうということだったけれど、側近を殺されて喜ぶはずがないじゃないですか。たくさん本を読み、史料を調べましたが、もっと他に意義のあることがあったんじゃないかと思ったりね。彼らが率いた兵隊さんたちと家族の方たちにも迷惑をかけたと思うとね。親を悲しませ、兄弟を悲しませてね。

―― 事件当時、安田さんは小学生。その日のことは覚えていますか。

安田さん  はっきり覚えています。私の田舎は熊本県天草で、まだテレビもないし、ラジオも村に1台とか2台とかあるだけでしたから、いつものように学校に行ったら、ラジオのある家の子が「東京で大変な事件が起きたらしい」と言っていました。でもまさか自分の兄が関わっているとは思いもしません。東京にいる兄から電報が来ました。それには「皆、無事。安心しろ」と書いてありました。なぜ、こんな電報が来るのだろうと父もいぶかっていました。事件のことを知ったのは夕方、その日の朝刊が届いたときです。ただ兄が関わっていたことを知ったのはそれからさらに3日たった29日でした。わが家が大騒ぎですよ。

―― それを知った時はどのような気持ちだったのでしょう。

安田さん  自分がというより、母が本当に嘆き悲しんでいたことが今でも忘れられません。うちは6男4女でその兄は次男、私は六男で13歳違いました。両親は「親を困らせたことは一度も無い孝行息子だったのに…」と言って嘆きました。長男は京都大学行って左翼の運動をし、次男は坊主になって中学の時、退学させられていましたからね。

―― その後、お兄さんのことで生きづらさを感じたこともたくさんあったと思いますが…。

安田さん  学校で、クラス全員が校庭で走ることがありました。先生から「よし」と言われた人から走るのを止めてよかったのですが、真面目に走っているのに最後まで名前を呼ばれないことがありました。その時、「兄のせいではないか」と思い、そのことがあってから何かあると、兄のせいかなと考えるようになってしまっていましたね。でもそれで大きな困難はなかったと思っています。

―― いじめられて学校にも通えなくなったのではないかと想像したりしてしまいますが…。

安田さん  そういうことがなく、旧制中学を出た後、士官学校を受験した時も、兄のことがあるので、だめだろうと思っていましたが、受かったんです。ですが、半年後に学校ごと、群馬に疎開しま
して、終戦を迎えました。22歳まで天草の実家で農家の手伝いをしていましたが、父親に勧められて、姉を頼って上京し、慶応義塾大学に入学しました。卒業後、都内の会社に就職して、72歳までその会社にいました。結婚もしました。ただ、兄があの事件に関わっていなかったらもっと両親を幸せにできたのではないかと思います。

―― 葉山に越してきたのはいつですか

安田さん  1981(昭和56)年です。小金井の社宅にいたのですが、とても寒くてね、暖かい所に住みたいと思っていたのです。この家は新聞広告で知りまして、見に来て決めました。山桜があっていいでしょ。景色も気に入ってね。



―― お兄さんが手を下した渡辺錠太郎教育総監の次女、シスター渡辺和子さんと交流があったと聞きました。初めてお会いしたのはいつだったのでしょう。

安田さん  1986年7月12日です。毎年7月12日は兄を含む反乱軍が処刑された日で、元麻布の賢崇寺(東京都港区)で供養を行っています。その年は50年目の追悼式がありました。当日、私は受け付けをしていたのですが、一人でいらしたシスターの姿を見て感動しました。会場までご案内させていただきましたがその時は名乗れませんでした。

法要の後、渡辺総監を兄と一緒に襲撃した高橋太郎の弟とお墓に行ったら、シスターがその反乱軍のお墓に手を合わせてくださっていました。私たちは驚いて2人で声を掛けさせていただきました。「私たちが先に渡辺大将のお墓にお参りさせていただかなければならないのに申し訳ない」と頭を下げました。ボロボロ涙が止まりませんでした。
 
―― 渡辺さんはどのような言葉を返したか覚えていますか。

安田さん  はっきりとは覚えていません。ただお父様のお墓の場所を教えてほしいと頼んだら、「あなたがたがお墓参りをしてくださったら、父もきっと喜ぶでしょう」と言われました。でもね、どうして自分の目の前で父親を殺した犯人の墓に参ることができたのだろうと思いました。私がその立場だったらそんなことできません。

―― この日のことを渡辺さんも転機だったと言われていますね。

安田さん  そうですか。その後、すぐに手紙を書こうと思ったのですが、出していいものかどうか随分悩んで、翌年になって「もう一度お会いしたい」と書いて送りました。そしたら、「どうぞいらっしゃい」というお返事を頂いて岡山まで妻と行きました。

―― 渡辺さんが学長をしていたノートルダム清心女子大学ですね。

安田さん  学長を引退されるまで、毎年、岡山に伺っていました。引退されてからは吉祥寺の修道院にも行きましたし、ここ葉山にも何度もお越しいただいています。お泊まりは鎌倉のホテルでしたが…。

―― お会いする中で事件のことについて話すこともあったのでしょうか。

安田さん  ほとんどありませんでした。宗教の話もありましたが、ほぼ雑談ですね。「ローマの休日」をもじってここは「葉山の休日」だと言っていただいていましたね。茶目っ気のある方でした。

―― 1991年にカトリックの洗礼を受けたのは渡辺さんの勧めですか。

安田さん  そうではありません。どうして自分の父親を殺した犯人の弟である私を受け入れることができるのだろうと、聖書を読み始めたのがきっかけでした。もちろん受洗した時には喜んで、ロザリオをお祝いにくださいました。イスラエルのバラの木でできたものです。



―― 渡辺さんと最後になってしまったのはいつなのでしょう。

安田さん  亡くなられたのが2016年12月ですから、その年の7月ですね。鎌倉の円覚寺で講演があったので、それを聴きに行きまして、終わった後、鎌倉の駅前でお昼を一緒に食べました。その前はその年の3月で、カトリック雪の下教会のミサに一緒に行きましたね。

亡くなったことはその日の朝、友達の電話で知りました。少し体調が悪いのかなと思っていましたが病気のことは一言も話されていなかったので、本当にびっくりしました。親が亡くなった時より悲しかったですよ。

―― ご自宅に渡辺錠太郎総監の書が飾られていて驚いたのですが。これは渡辺さんから頂いたのですか。

安田さん  そうですね。これ以外、渡辺総監のものはシスターと一緒に靖国神社に行って寄贈しました。




―― 今後、こうしていきたいという思いはありますか。

安田さん  この年ですからね、あまり大きな考えはないです。近代国家になりましたから、もうああいうこともないと思いますし、穏やかに過ごしたいですね。徴兵などのない平和な世の中であってほしいです。

【インタビュー】山本勝哉さん ・ 逗子葉山経済新聞編集部
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