特集

記憶障がいを負った溶接職人と仕事場を提供し寄り添ってきた友人が溶接工房の工場長と店長として新しいスタートを切った

  • 103

  •  

 溶接工房「PANZ(パンツ) FACTORY」(逗子市新宿3)の職人で、工場長の山本晃嗣さん(以下、コージー)は2017(平成29)年10月、サーフィン中に脳出血を起こして一命をとりとめたものの、右半身片まひと高次脳機能障がいという後遺症が残った。娘同士が仲良しだったという塚越暁さん夫婦は心を病み、職を失った彼に仕事場を提供し、山本さんとその家族に寄り添い伴走してきた。障がい者と支援者という関係から、共に働き、生きるという関わり方に変化してきた2人に話を聞いた。
 
□目の前にあるもの・こと・人以外を思い出せなくなる高次脳機能障がい
 
―― 工場には今年10月、SUZUKID主催の「溶接人杯(コンテスト)」で「UPCYCLE賞」を受賞した作品が壁にかかっています。水泳帽をかぶって、水中から出てきた塚越さんの顔です。
  コージーさん、この作品をご覧になって、今、どういう気持ちですか。
 
コージー  大きな展示会場でたくさんの人が見て、投票してもらえたことを思い出すとありがたいと思えます。でも、そもそも目で見てないものは忘れてしまうので、つかちゃんを思い出すために作ったものだから今も変わらず、仕事の合間にこの作品を見て「あ、つかちゃんだ」と思い出す。そういう意味で役立っています。
 
―― 受賞は仕事を続ける後押しになりましたか?
 
コージー  なったとは思いますが、瞬間の気持ちがその後の頑張るぞ、にはつながりません。でも受賞したことを思い出すことはできるので、思い出した時には温かい気持ちになります。瞬間瞬間の気持ちを大事にしていくしかありません。


 
―― コージーさんは海で脳出血を起こし、1週間生死をさまよい一命を取り留めたと聞いています。塚越さんは以前からの友人だったのですか。
 
塚越  娘同士が同じ放課後クラブに通っていて仲良しだったので、保護者仲間でしたが、深い付き合いだったわけではありません。ただ最初は生きるか死ぬかのことで、コージーだけでなく奥さんも娘も仲良しだったので、まず「何とか助けなきゃ」でした。当時、彼は「どうせみんな離れていっちゃうじゃないか」とよく言っていましたから。
 
コージー  そうです。退院した時も、みんなから「良かった、おめでとう」と言われましたが、僕にとっては逆で、退院したら死のうと思っていた。右半身が動かないのだけど、体が動かないと思うことはなく、心が動かなかった。自分が誰かも分からなくなっていたし、女房や娘を見ても懐かしい友達かなぐらいにしか思えなかった。それ以外の友人は誰を見ても知らない人でした。
 
塚越  最初は僕も理解できなかったのですが、記憶障がいにはいろいろなパターンがあるそうで、コージーの場合は記憶の貯蔵庫があって、そこにはいろいろなことが入っているのだけど、そこから自在に取り出すことができないんです。だから、「おめでとう」と言ってくれた友人も目の前からいなくなれば消えていってしまう。そういう孤独を抱える苦しさ、それによって家族も苦しんでいることが僕ら家族はたまたま見える位置にいました。


 
□退院から仕事復帰、そして職を失う。
 
――  2017(平成29)年10月に入院して翌年2月に退院、4月には塗装工の仕事場に復帰するが、2019年夏に職を失う。その後の半年がコージーにとって最も暗黒な時代だったと塚越さんは振り返る。
 
塚越  職を失って引きこもるようになっていましたね。障がいの一つだったと思いますが、感情をコントロールできなくて、怒っているか普通でいるかのどちらかで、家でも乱暴になり、何度も奥さんから連絡もらって家に行きました。当時のコージーの家族の苦しみは言葉で表現しようがないですし、あのとき、奥さんと風花(コージーの娘)がコージー見捨てなかったから、今があるのだと思います。
 
コージー  仕事もなくなって追い込まれていました。生きていても仕方ないと思えて。脚立とひもを持って近くの山に夜中行ったこともありました。
 
塚越  家から外に連れ出そうとお茶をしたり、仕事を一緒に探したりしましたね。
 
コージー  福祉作業所も行ったけれど、作業所では例えば紙を折るだけの単純作業しかなくて、月に20日働いて1日8時間1カ月5万円のような仕事しかなかった。アルバイトも右手足が動かないと難しかった。稼がないといけないのに仕事が見つからず、追い込まれていきましたね。
 
塚越  その頃、ふとした会話の中で、溶接ができる、片手でできる、溶接機が倉庫にあると聞いて、半信半疑で溶接機を引っ張り出してやってみてもらいました。
 
コージー  趣味でね、以前、カッティングボードなど作って、女房とフリーマーケットに出店したりしていたんです。
 
塚越  家の外に出るきっかけを何とか作ろうと思っていたので、うちに作業スペースがあるから通ってきて居場所にしてもらい、仕事になったらいいなと思いました。それが溶接工房の始まりです。妻とは、やろうといった限りは途中で見捨てないという覚悟でやろうと、しっかり話し合いました。僕たちが見捨てるということがコージーの死に直結してしまうと思っていたからです。関わらないという選択肢はその時の僕らにはなかったけれど、10年、20年、30年と長い期間になっても関われるのか、ということを夫婦で議論しましたね。


 
□2020年2月溶接工房 「PANZ FACTORY」がスタート。PANZはコージーが走り屋だったころのグループの名称。
 
―― 工房を立ち上げて、注文はあったのですか。
 
塚越  直後に、コミュニティー仲間がホステル&カフェを立ち上げた時で、ダイニングテーブル、ハイ・スツール、コーヒーテーブルのオーダーをもらいました。これは大きかったですね。
 
コージー  利き手ではないし、最初の仕事だったから、今その製品を見たら、1日でいいからやり直させてと思うかもしれない(笑)
 
塚越  オーダーで作れる強みもあって、支援の意味も含め1年半で100近いオーダーが途切れなくありました。ちょうどコロナ禍になり、僕に時間の余裕がありました。オーダー前のやり取り、部材の仕入れ、設計図を描く、仕事を取ってくる、お金の計算をするなど、僕は「営業事務」という立場で伴走していました。
 
□2022年10月 コージーは「工場長」に、塚越さんは「店長」になる
 
――10月24日、塚越さんは、「PANZ FACTORY」をコージーの仕事場としてではなく、自分の仕事場にもすると宣言した。
 
塚越  もともとコージーをサポートする、ということだけのためでは続かないと思っていました。コージーにとって居場所であり仕事の場所として成立することが自分にとってチャレンジだった。それがいつしかコージーをサポートする場のような、自分にとってあいまいな活動になってしまい、僕個人の仕事が元に戻って忙しくなると「PANZ FACTORY」の仕事が後回しになっていましたね。そうなると注文が入れられなくなり、赤字にもなる。
 
コージー  赤字だと聞いた時は、何だ、赤字だったんだ、もっとそういうことも言ってくれよと思いました。
 
―― 店長としたことで、どういう風に変わったのですか。
 
塚越  僕だけが抱えるのではなく、関わってきた仲間にも「仕事」として分散するような仕組みを作り、僕の他の仕事と同じように「仕事場」として捉えるようにしました。全てが新しい注文だとその度に一から打ち合わせして、図面を描いてと時間がかかるので、通販やマーケットに決まったプロダクトを作ることで解消できるよう、S字フック、ブックスタンド ロケットストーブなど在庫を蓄えています。


 
―― 工房は第2フェーズにステップアップしたのですね。コージーの障がいは回復しているのでしょうか。
 
塚越  本人は気づいていないかもしれないけれど、今年になってからも気分の山谷が激しいことがあった。僕や妻は落ち込んでいることがすぐ分かる。ラインの絵文字の使い方や朝来た時の表情で…。それで、「どうしたの?」と聞くと「どうもこうもない」と言って、負の感情を抑え込もうとして、言わないように頑張っているようにも見える。漫画の「ズーン」という感じになっている時は、仕事の優先順位を変えて話を聞きます。聞くと落ち込むきっかけはちゃんとあって、自分を責めてしまっている。
 
――そういう時はどうするのですか。
 
塚越  2時間でも3時間でも話します。独りぼっちではないことを実感として思い出してくれると 落ち着くんです。仲間や家族がいることを思い出してくれると。
 
――療法士みたいですね
 
塚越 いえいえ、僕もカチンときて心無い言葉を言ってしまい、コージーが怒って帰ってしまうこともあります。サポートされる人とサポートする人という見られ方になってしまうのだけど、僕はそうじゃなくて、僕の大人げなさにより、言い合うことも多々あるんです。
 
コージー  でもこういう感じは嫌いじゃない。その時は僕もムカつくけど、つかちゃんもこういう人間なんだと単純にそう捉えています。普段は忘れているのだけど、分からないなりに分かるのは、つかちゃんは経営者だし、すごくたくさんの人とやり取りしている中で、私一人のために時間をとっていると思うと、腹が立っても遠慮する気持ちにもなります。
 
塚越  工房を始める前のコージーは「俺(自分」)しかいなかった、「俺」がこんなに苦しいのにどうして分かってくれないんだと。考えることも、話すこともできない、すぐ忘れてしまう、この孤独感を分かってくれよ!!と。何度も何度もその叫びを聞きました。当時は自分以外のことを考える頭になっていなかったのでしょう。奥さんや風花からすると、どれだけつらかったかと思う。今、それはなくなりましたね。コージーの中の苦しさまでは分からないけれど、以前に比べて大きな変化があると感じています。
 
―― 今後についてはどうでしょう。
 
塚越  営業事務という立場でサポートする、そこに逃げがあったかもしれないので、第2フェーズに振り切ったことで、コージーは工場長で、自分は店長という「形」にしました。そう表現したことで自分のこととして捉え、他の仕事と同じ大切な仕事なんだと位置づけることができると思えるようになりましたね。マネジメントしていくことはプロフェッショナルとしての時間の使い方だと納得できた。そして何よりも僕と妻だけじゃなくて仲間がいると思っています。その仲間たちと、コージーの仕事として成り立つようにすることが一番だと考えています。
 
コージー  一瞬でいろいろ思いついたこともすぐ忘れてしまうせいで、思ったことが続かないから約束もできない。そういう感じなので、娘のために貯金できることが一番。それ以外のことは考えていない。
 
―― 溶接という技術は素晴らしい仕事だと思いますが、仕事について望むことはありますか
 
コージー  溶接をやっている時は溶接のことだけを考えているので、前よりいい物を作っている、少しずつ質は良くなっていると思う。触れてもけがしないようにとか考えて作っています。ただ、いいものができたなあとニヤッとするのだけど、次の瞬間忘れてしまうし、買ってくれた人が喜んでいたと聞かされると良かったなとにんまりする。でも忘れてしまう。忘れることはひどく残酷なこと、しょうがないけれど。これはどうしようもない。でも自分でも少しは回復していると思っています。
 
―― コージーさんと同じような障がいがある人や、その家族へ伝えたいことはありますか。
 
コージー  世間の人たちがちょっとだけでも自分たちの気持ちを分かったくれたんだなと明るい気持ちになったらうれしい。脳梗塞、脳出血を起こした人は、それぞれ違う障がいに悩み、苦しみがある。自分の家族は苦しみを理解しようとし向き合い続けてくれたけど、当事者の本当の苦しみは本当の意味では本人しかわからず、勝手に一人で苦しんでいる人がほとんどだと思う。そんな人にちょっとでも周りの人の光がちょっとだけ開いたと思えば、その人にとって明るいことだと思う。僕にとってその光の一筋がつかちゃんだった。

https://panzfactory.com/

Instagram: @panz_factory

↓「笑いあり、涙あり、コージーの手書き手記その1」。利き腕ではない左手でコージーが書いた発病から最初の急性期病院、リハビリ病院に転院したときまでの記録。(PANZ FACTORYのオンラインストアで購入できる)


 
 

  • はてなブックマークに追加
エリア一覧
北海道・東北
関東
東京23区
東京・多摩
中部
近畿
中国・四国
九州
海外
セレクト
動画ニュース