国内最大級の耐久レース「スーパー耐久」のST5クラスシリーズで2024年、チャンピオンに輝いたチーム「TEAM NOPRO(ノプロ)」を率いる野上敏彦さん。ロードスターを中心にスポーツカー・レーシングカーの整備・修理やパーツ製作・販売を行う「有限会社ノガミプロジェクト」(葉山町長柄)の社長で、自らもドライバーだ。学生時代から半世紀、車と向き合ってきた道のりと思いを聞いた。
―― 昨年、マツダのディーゼル車でスーパー耐久に参加して10年目、念願のシリーズチャンピオンおめでとうございます。
野上 ありがとうございます。 その前の2年、シリーズ連続2位だったので、もう難しいかな?という気持ちもありま した。優勝はたくさんあるが年間チャンピオンになるにはいろいろな要素が必要。ぎりぎりコンマ5ポイントずれていたら無理だった。最終戦前のレースの予選で車をクラッシュ転倒させましたが修理して結果は4番、シリーズ最終戦で手に汗握る展開で優勝。 運も味方に付けてシリーズ優勝できました。
―― 迷いながらも挑戦し続ける魅力があるのですね?
野上 そうですね ともかく車が好き、レースが好きなんですね。
―― 子どもの頃からですか。
野上 私は神戸・御影産まれの大阪・豊中育ちですが、幼稚園の頃はまだ向こう三軒両隣に車がないような時代でした。 誰かの家の前に車があると「新車を買ったらしいよ」とうわさになるくらいでしたが、うちは父親の仕事の関係で比較的早くから車があったんです。 ただ、私が先に興味を持ったのは年齢的にバイクでした。
―― バイク?
野上 小中学生時代、背が低かったこともあり、大きな同級生たちに「負けるもんか」という気持ちがあって、その体の小ささや力のなさをバイクという機械がカバーしてくれている、パワーアシストスーツ?みたいな存在でしたね…。六甲山の表、裏、箕面国定公園などでテクニック?を磨いていましたよ。
―― 当時の情報源は専門雑誌だったと思いますが、熟読していたのでしょうね。
野上 「オートスポーツ」「オートテクニック」など読んでいました。海外レースにも興味がありました。ちょうどモータリゼーションが盛り上がっていた時代で、テレビでもレース中継があり、生沢徹選手が初優勝した日本グランプリも見てました。かっこよかったですよ。
バイクから
飛行機か、車か迷う
―― バイクから車に関心が移っていくのはいつ頃だったのでしょう。
野上 うーん、実は車の前に高校卒業までは飛行機のパイロットになりたかったんですよ。伊丹空港が近かったこともあり、飛行機が好きで、セスナに乗りに行ったり、操縦かんを握ったりした経験もあって航空大学も選択肢に入れていました。ただ、映画「「栄光のル・マン」で刺激されたこともあり、やっぱりレースが好きで、ル・マンにも行ってみたい、将来については大学に行ってから悩んでもいいのでは…と、東海大学の工学部動力機械工学科に進学しました。
当時、札幌・湘南・福岡で選択できたので、教養課程の2年間札幌校舎に行きまして、そこで車の運転を覚えました。
―― 札幌ですか。
野上 先輩から5,000円で買った軽自動車でさんざん校内の空き地を走り回りました。その後、免許を取得 当時、北海道の広大なダート(荒れ地)で走りまわり楽しかったですよ。雪が降ると滑るからさらに楽しくてね。仕送りがガソリン代で消えてしまうほど夜中走ってました。もちろん整備も自分でやりました。当時、自分でやっと買い集めた工具は宝物でした。
―― 3年になって湘南校舎(平塚)に戻ってからはどこを走っていたんですか。
野上 富士スピードウエイが近いので、よくレース好きな仲間と行きました。練習走行で、ナンバーのついてないゼッケンを貼ってる競技車両を相手にしていました。
―― がっつり楽しんだ大学時代だったと思いますが、就職先の決定打は何だったのでしょう。
野上 やっぱり車が好きだということで、当時海外ラリーで活躍していた三菱自動車、林みのるさんの童夢なども考えましたが、「ル・マン」への憧れが強く、マツダオート東京に入社しました。そこでドライバーで「ミスター ル・マン」と呼ばれた寺田陽次郎さんにも会いましたし、実際、メカニックとして「ル・マン」に6回参加できましたし、ルマンのコースもあちこちレンタカーで走りまわりました(笑)
―― ある意味「ル・マン」への夢がかなうのですね!
(葉山町の山梨崇仁町長の訪問を受け、車両の説明をする野上さん)
マツダオート東京(マツダスピード)からの独立
―― 独立は視野に入れていたのですか。
野上 きっかけはマツダスピードを統括していた大橋孝至さんが社員ドライバーを今後作らないといういう方針に変えたことです。当時は、メーカー直属のワークスドライバーが当たり前にいた時代で、マツダにも「三羽がらす」と呼ばれた片山義美さん、従野孝司さん、寺田陽次郎さんがいて、いつかは自分も、という気持ちがあったんですね。 それで独立して、ドライバーを探しているといういすゞのサテライトチームとドライバーとして契約しました。
―― メカニックと同時に走りたい気持ちがやっぱり強いのですね。
野上 同時にレーサーを養成する専門学校から手伝ってくれという誘いにも応じました。
―― F1ブームもあって、レーサーになりたい若者も多かったのでしょうね。
野上 バブルが終わって余韻が残っている頃だったので、生徒は集まりました。ただ当時は170人入学しても2年次には半分になっていました。それでも手伝うからには彼らの履歴書を汚さないよう頑張り、レーサーだけでなくレース業界で活躍できる人材を育てました。
―― 生徒たちは経験豊富な先生に恵まれたと思いますが、自分のレースは続けられたのですか?
野上 もちろん。マツダスピードを辞めた時に自分の会社を設立して月2~3回はプロとしてレースに参戦していました。当時は専門学校は非常勤だったので週2回で良かったのですが、その後、常勤教務部長として学内にチームを作り、全日本GT選手権(今のスーパーGT)に参加したり、鈴鹿1000kmに参加して表彰台に上がりました。
当時の有能な学生は、今もレース業界で偉くなって活躍しています(笑)
葉山へ移住
母の意外な貢献
―― 葉山では1998(平成10)年に一色に店を構えたということですが、移住したのはいつですか。
野上 高校を卒業した年に父親が東京の本社に異動になった時です。ちょうどオイルショックで、別荘地として売り出していた住宅地(イトーピア)が沢山売れ残っていて。逗子葉山高校のあたりも分譲の更地でした。
―― そんな頃に移住していたのですね。
野上 まだバスも通っていない不便な時で、住宅地の管理会社が朝晩だけ、今の駐在所の向かい側の空き地から逗子駅にマイクロバスを走らせていました。
当時の居住者はとても不便だったので、母は地域のバス委員になって京急バスと交渉していました。
―― それは貴重な証言ですね。お母さまたちの働きかけがなければ、他の団地のようにバス便がなかったかもしれませんね。
野上 そうですね・・・(笑)
葉山にロードスター専門店
―― 専門学校で指導する一方、レーサーとして活躍。独立から7年後、少子化もあり専門学校から離脱し、葉山にロードスター専門店を構えるようになるとメカニックとしての受注も増えていくわけですね。会社の説明として「マツダ・ロードスターを中心としてマツダ車のカスタムパーツメーカーとして展開、モータースポーツからストリートまでマツダオーナーのエキセントリックなカーライフを応援」とありますが、エキセントリックな、という点が特徴ですか?
野上 車好きな人ならば、エキセントリックシャフトというロータリーエンジンの重要な部品名にかけたことが分かるかもしれないが、エキセントリックとは「おかしな」という意味があるので、変なことばかりやっていると思われてもいいかもしれないと(笑)。
実際、ロードスター屋とレース屋をアクティブに同時展開するようになりました。横須賀に倉庫を借りて物量も増えてきたこともあり、一色からここ長柄に越しました。
―― それがが2019年秋ですね。
野上 広さが必要だったので、木古庭や国際村などずっと探していたので、これも縁ですね。
―― レースに参加したい人にチャンスをあげているとも聞きましたが…。
野上 サーキットで練習走行をしていても、個人で24時間レースに参加することはできません。なので、そういう夢を持ち続けている人の夢がかなうよう乗車してもらっています。40~50代が多く、私と同世代の60代もいます。会社の社長など参加するためのお金を作れる人たちで、練習熱心ですよ。24時間という大舞台は特別なんです。
自分自身のモータースポーツ史に24時間レースに参加したい、歴史を残したい人は意外とたくさんいらっしゃるようです。
(公式テスト時のNCロードスター37号車=提供/佐々木崇さん)
NCロードスターへの思い
―― 野上さんのこれからの夢は何でしょう。
野上 取りあえず今年も3月からモータースポーツシーズンが始まりましたので、まずレースをやり切るしかないですが、特に一世代前のレーシングカー、NCロードスターを新たに作って走らせることに意味があると考えています。
―― NCロードスターは特別な車なんですね。
野上 マツダは1989(平成元)年、初代NAロードスター1600ccを世界規模で大フィーバーさせたんです。2シートのオープンカーなんて売れると思わなかったのに。そのあと、ビッグマイナーチェンジでNBロードスターを作った。そして1998(平成10)年、NCロードスターが生まれます。NAの雰囲気を残しながら2000ccの優雅さを感じる余裕のある作りでした。
しかしリーマンショックや東日本大震災などがあり、販売台数は伸びませんでした。それでも新車で購入できる人たちはいた。コロナ禍の時もそうでしたが、そういう時って客層が変わることを知りましたね。その後、NC乗りだけのクラブができて、同じ車好きで事実上の異業種交流会となり、あちこち走りに行って楽しかったです。
―― NCロードスターへの思いも特別なのですね。
野上 もともとNCを得意とするショップとして新たに長柄でスタートしたということもあります。
改めてスポットを当てたいという気持ちもあり、スーパー耐久にはST5クラスのMAZDA2 ディーゼルの17号車とともに、ST4クラスでNCロードスターの37号車、参戦しています。Attack筑波2025ではNCロードスター初の筑波1分切りを達成しました。
スーパー耐久は2戦終えて、現在、クラス・シリーズ2位です。5月末には、富士24時間も開催されます。 これからの可能性を楽しみにしていてください。
<スーパー耐久シリーズ 2025 Empowered by BRIDGESTONE>
第1戦「もてぎスーパー耐久4 Hours Race」 3月22日
第2戦「鈴鹿5時間レース」 4月26日・27日
第3戦「富士 24時間レース」 5月30日・6月1日
第4戦「SUGO」 7月5日・6日
第5戦「オートポリス」 7月26日・27日
第6戦「岡山」 10月25日・26日
第7戦「富士」 11月15日・16日