小坪洞窟砲台跡爆発事故で犠牲になった子どもたちの慰霊碑が建立され、除幕式と慰霊祭が79年前の事故同日10月20日、事故のあった洞窟の下(逗子市小坪)で行われた。
終戦間近、小坪と鎌倉を結ぶ海岸沿いの崖つたいの道に面して洞窟砲台が造られていた。終戦後、砲台としての機能を失っていたが、火薬などが残されていたため、周辺で遊んでいた子どもたち約50人が死傷した。
兄を事故で失った小坪在住の草柳博さん(当時、小学3年)は遺族会として残った一人として慰霊碑の建立を強く望んでいた。「事故のあった砲台入り口にお地蔵さんを彫った慰霊碑があったが高台に移されてしまい、花を手向けに行くことも難しくなった。元の場所に建て、犠牲者全員の名前を残して供養したくて」と思いを込めて話す。
慰霊祭では神主代理がおはらい後、池上慎吾小坪小学校校長をはじめ、逗子独立奉賛会、小坪小学校区住民自治協議会、消防団、氏子会など地域の関係団体代表ら12人が玉串奉てんを行い、地域住民など参列者が線香をあげ、拝礼した。
事故当時、兄におんぶされて事故に遭い、頭に大やけどを負ったという小坪在住の83歳の男性が事故で亡くなった兄の写真を持って参列していた。「髪が生えず、ずっと帽子をかぶっていた。事故のことは誰にも話してこなかった」と話し、「慰霊碑のことが気になっていた」と草柳さんに語りかけた。
「父から話は聞いていた」という茅ヶ崎在住の村越里絵さんは「地域の新聞で今日のことを知った。父は大やけどを負い、鎌倉の佐藤病院に運ばれて一命を取りとめ、67歳で亡くなった。もっとこの事故のことを知ってもらえたら」と参列し、花をささげた。
桐ケ谷覚逗子市長は「慰霊碑が建つことではっきりした形で事故を残すことができる。逗子の歴史の一つとして忘れないようにしたい」とあいさつで述べた。
事故について正確なことを調べて残したいと活動する市民団体「逗子の歴史を学ぶ会」では、6月に歴史講演会「砲台に消えた子どもたち~小坪の悲劇が今、語りかけるもの」を行い、犠牲になった子どもの全員の名前を慰霊碑に刻めるよう行動を起こしている。「今月になってやっと1961(昭和36)年当時の横浜調達局の資料から見舞金を支給した被害者の人数が分かり、亡くなった子どもは16人だったことが明らかになった。でも名前は分からない子どもがまだいる。逗子が横須賀市に併合されていた期間だったため、逗子市に資料がなく、うやむやになっていることがある」と副会長の天野清司さんは話す。
同会も遺族会も戦後80年となる来年10月20日には犠牲になった子どもらの名前を刻めることを望んでいる。