日本で8月30日に公開された韓国映画「ボストン1947」(カン・ジェギュ監督)は1936(昭和11)年、ベルリンオリンピックのマラソン競技に日本代表として出場し、当時の世界新記録で金メダルに輝いた孫基禎(ソン・ギジョン)と銅メダルを獲得した南昇竜(ナム・スンニョン)が若手のホープランナーをボストンマラソンに出場させ、祖国の記録を取り戻そうとする真実に基づくヒューマン・エンターテインメント。
主人公の一人、韓国の「伝説の人」と言われるソン・ギジョンの孫で逗子で暮らす孫銀卿(ソン・ウンキョン)さんに「祖父」としてのギジョンさん、「伝説の人」としてのギジョンさんについて、そして映画について話を聞いた。
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―― 日本で生まれ、横浜で育ち、逗子で暮らしているウンキョンさんはお父さまがソン・ギジョンさんの長男だそうですね。
銀卿さん はい、父は韓国で生まれ育ち、日本生まれ育ちの在日2世の母と日本で結婚しました。姉と 私は在日3世になります。祖父は祖母と韓国に住んでいましたが、横浜にあった私たち家族の住まいを別荘のようにして年に数回来て、1カ月ほど滞在していましたので、物心ついた頃からおじいちゃん・孫として交流がありました。一緒に散歩したり買い物に行ったりしたほか、けんかもしましたね。
―― 「おじいちゃん」が韓国で「伝説の人」「悲劇のランナー」「祖国喪失の象徴」「走る独立運動家」などと評されていたのは、いつごろから知っていたのですか。
(注釈/ギジョン選手は金メダル授与の表彰式で日本国歌が流れる間、月桂(げっけい)樹の鉢植えで胸元の国旗を隠し新聞「東亜日報」には胸の日の丸が塗りつぶされた表彰式の写真が掲載され、当時の朝鮮総督府の警務局によって同紙記者の逮捕・発刊停止処分となった)
銀卿さん 私が小学生の頃、1988(昭和63)年にソウルオリンピックがあり、祖父は聖火ランナーを務めましたので、暮らしていた横浜の町でも祖父は有名で、大切にしてもらっていました。私も「ソンさんの孫」と友達に知られていました。日本の名字でないことでいじめられることもなかったですね。銀卿は祖父が付けた名前なんです。
―― 町の人たちにとっても、歴史に名前を刻んだ有名人が町に来ることがうれしいことだったのかもしれませんね。「おじいちゃん」としての思い出といえばどんなことでしょう。
銀卿さん 祖父はおしゃれ好きでシャツにも気を使い、銀座や新宿の百貨店に買い物に出かけていました。姉や私も一緒に行き、洋服を買ってもらうことも何度かありました。海外で公の場に出ることも多かったので装いに気を遣うことを経験したのかもしれません。
(右から/ソンギジョンさん、幼少の頃の孫銀卿さん姉妹。提供=孫銀卿さん)
―― オリンピックの時にギジョンさんの身の上に起きたことなどを聞いたことはあるのでしょうか
銀卿さん 直接聞いたことはありません。ただ日韓関係って波があり、いいときも悪いときもありますが、祖父がそういうニュースを見て、「日本も韓国も悪いんだよな」とよく言っていました。私が大人になる前に聞いていた言葉ですが、子どもなりに祖父が抱えている複雑な背景や心境を感じていたので、こんなこと言えるなんてすごいなと思っていました。
カン監督が伝えたかったこと
―― 映画を作るにあたって製作会社から事前に話はあったのですか。
銀卿さん ありません。私たち夫婦の知り合いで韓国の映画やドラマを買い付け、日本に配給する仕事をしている友人(安成美さん)が逗子にいて、その友人が夫にこの映画のことを話したんですね。そしたら夫が祖父のことだって気づいて、知ることができたんです。その縁がなければ知り得なかったかもしれません。
―― 舞台あいさつなどに参加されているので、配給会社がウンキョンさんのことを元々知ってのことかと思いました。
銀卿さん その友人(安さん)にも祖父のことは話していなかったので、今回、偶然に地元で縁がつながってプロモーションに参加することになりました。
―― 偶然だったのですね。ですが、これまで「孫基偵さんの孫」ということで取材を受けることはなかったのですか
銀卿さん あります。20代の頃から4年に1度、オリンピックの時ですね。祖父のことがストーリーとして掘り起こされるので、特に、祖父が亡くなってからはオリンピックの歴史の中の人になりましたので…。
―― 映画をご覧になって、どんなことを思われましたか
銀卿さん 祖父が現役引退後、有名になったのはこの映画で描かれている1947(昭和22)年ではなく、1950(昭和25)年のボストンマラソンです。咸基鎔、宋吉允、崔崙七選手が1~3位を独占した当時の監督を務めていましたから。祖父のことはいろいろな人が書いてくださっていて、読んでいますが、1947年のことはほとんど聞いたことがなく、映画の内容は新鮮でした。
―― 8月1日に国立オリンピック記念青少年総合センターで開催された舞台あいさつ付き特別試写会でカン監督は「4年ほど前に後輩がこのシナリオを持ってきてくれた。読むまでこの奇跡のようなサクセス・ストーリーを知らなかった。韓国では第二次世界大戦が終わり、国が解放された後に朝鮮戦争が勃発してしまうわけだが、その前の時期に起きた奇跡のようなストーリーを、ぜひとも映画化したいと思った」と話していますね。
銀卿さん 監督はもともとスポーツやマラソンに関心があり、「走る」ことを題材にした映画を撮ってみたかったようです。
―― 監督と面識はあったのですか。
銀卿さん 最初に会ったのは昨年です。この映画のことで会ったのではなく、毎年、祖父の命日に韓国で行われている「孫基偵平和記念マラソン」の時です。その大会のスターターをする父母と一緒に私も行きますが、昨年は監督もスターターとして来ていたのでお会いしました。私はランナーとして参加したので、特に会話を交わしたわけではありませんが。
―― 映画「シュリ」や「ブラザーフット」などが世界的に注目を集めた監督ですが、実際、舞台あいさつなどでご一緒しての印象はいかがでしたか。
銀卿さん 映画監督というと、現場で大声を出して指示を出しているようなイメージですが、とても穏やかで優しい方でした。監督に、撮影中も今と同じように穏やかなのですか?とお聞きしたところ、変わりないです、と。
穏やかな笑顔ですが、今の社会への問題意識、そこからくる歴史観などはとても勉強になりました。2日間にわたって監督とご一緒させて頂き、監督のコメントなどを通して、今、このように豊かで平和に生きることができる、そのことへの感謝を忘れてはいけないと感じました。
―― 試写会での観客の皆さんの反応はいかがでしたか。
銀卿さん 監督や俳優の女性ファンが多かったのですが、歴史について知らなかった、その歴史に登場するソンの孫が日本にいるんだという驚きなどもあったようですね。ストーリーにも素直に感動されたようでした。
―― 映画では「祖国の記録を取り戻すために」というフレーズがあり、監督も試写会で「社会的にも政治的に国の統治がきちんとされていない時代。イデオロギー的にも分断され、国内でもさまざまな意見が対立し、これから自分たちはどう生きていけばいいのかの座標を失っていた時代だった。そうした中で国際大会であるボストンマラソンにおいての金メダルは「コリア」の名前で世界から注目されることができるんだという可能性を示されることによって、国民は自信を持つことができたし、韓国にとっては大きなパワーや夢を与えてくれた出来事だった」と話しています。
日本のことを実際、どう思われていたのか、ギジョンさんにお聞きになったことはありますか。
銀卿さん 私自身がアイデンティティーについて悩んでいた時に、聞いてみたことはありましたが、質問をはぐらかされてしまいました。ただ日本語しか話せない私のこともかわいがってくれましたし、日本の食べ物も好きですし、日本の友達もたくさんいますし、日本に対して批判めいたことを聞いた覚えはありません。
グローバルパーソンだった祖父
スポーツで平和に貢献
―― 一緒に走ったことはあったのですか
銀卿さん ありませんでした。私が走ろうと思ったのは20代、祖父が亡くなる1年前、2001(平成13)年でした。寝たきりになっていた祖父のお見舞いに行ったとき、「来年は東亜マラソン走るよ」と言ったら、「こんな苦しいことをするなんて狂ってる」って言ったんですよ。
でもやっぱり祖父が亡くなってみると、私は韓国語もできないし、父のように語り部にもなれないから、祖父のことを忘れないように、伝えていくには走ることが一番じゃないかと思って約束通り、走り始めました。2003(平成15)年、ソウルで開催されている「東亜マラソン」のフルに出場し4時間半くらいで完走しました、苦しかった…。
―― おじいちゃんの言葉がよみがえりましたか。
銀卿さん そんなこと考える余裕もなかったですね。
―― 銀卿さんにとって「走る」ということに意味があるように思えてしまうのですが、いかがでしょう。
銀卿さん 大学生になって祖父と韓国語でしゃべってあげたいな、しゃべるべきだよなと思ったのですが、発音が悪かったせいか、祖父がもう寝たきりの状態だったこともあってうまく通じませんでした。その分、走ることで追体験できると思えたのです。祖父がどんな気持ちで走るのか一つでも分かればと。
―― 先日のパリオリンピックを見て思ったことはありますか
銀卿さん 選手の皆さんが目標を達成して笑顔での帰国は平和だからこそだなと思いました。祖父がメダルを取ったのに笑顔で韓国に帰国できなかったことと比べるとつらいですね。政治犯のように警察官に横を抱えられるように、戻ってきてお祝いもお迎えもなしという状況でしたから。それは平和じゃない状態ですよね。当時の本人の心情はとても想像できません。その時の身の上に起きたことを思うと日本を嫌いになっていてもおかしくなかったと思います。
―― そういう意味でもこの映画でボストンマラソンをゴールした後にどういうことがあったのか、見てもらいたいですね。
銀卿さん この映画で描かれた1940年~50年は日本の統治からアメリカの統治になっていました。祖父の目線で、対日本に対してだけを切り取るとそれは複雑で、いい思いも嫌だなという思いもあるけれど、祖父はもっと世界中いろいろを見てきて、例えば祖父が仲良かった黒人の陸上選手などはもっと複雑な状況の中にいることを祖父は理解していたと思います。
彼が握手してきた人たちは多様だった。身の上に起きたことは悲しいし怒りもあるだろうけれど、それで心を閉じてしまうような人ではなかった。だから日本にも来ていたし、世界あちこちの式典などに呼んでいただければ喜んで出かけていました。自分自身がいる場所が広がるじゃないですか。祖父はグローバルパーソンだったと思います。
―― どうしても日本にいる私たちは、韓国対日本という見方をしてしまいますが、そうではないのですね。
銀卿さん 1950(昭和25)年、朝鮮戦争の時、祖父は命を取られるかもしれないから逃げ回っていた時代もあるので、私たちが祖父の経験したことを想像するのは本当に難しいことです。
―― 最後に映画を通して伝えたいことは何でしょう。
銀卿さん 祖父は生涯後半、スポーツを通じて平和の大切さを伝えたいと活動していました。スポーツマンは平和に貢献しなければいけないと。ですので、この映画でもその思いを知ってもらえたらと思います。
韓国は当時、しんどい歴史の国だった、その中で希望を見つけていく、選手を育てていく。お金も食料もない中で走り、しかも海外、アメリカに連れて行くなんて、よくお金を集めたと思うし、そのエネルギーのすごさに純粋に感動していただけるのではないでしょうか。祖父もカン監督に映画にしてもらえて、とても喜んでいると思います。
―― 真実に基づく映画ですので、こういう歴史があったことを知って、平和の尊さを感じてもらえたらと思います。
ところでこの映画を見たら走りたくなるかもしれませんね。
銀卿さん 監督も体にいいので走りましょうと言っていました。そして、配給元や映画館にご協力いただき、9月7日、横須賀・汐入の映画館でこの映画を観た後に映画館から逗子まで10キロランニングをするイベントを企画しました。企画には友人たちが主宰するランニングチームBeyond Zushiがランニングサポートとして参加をしてくれます。私も、トークショーとランニングパートに参加します。
―― いい企画ですね。確かに駅伝やマラソン大会の中継を見終わると走りたくなりますから(笑)
複雑な歴史の中で、その歴史に名前を刻んだおじいさまの話まで、貴重な話をありがとうございました。
■映画「ボストン1947」https://1947boston.jp/index.html
■ソンギジュン記念館 http://www.sonkeechung.com/sonkeechungEn/main/main.do